岩坂彰の部屋

第7回 日本語文法を考える

岩坂彰

He therefore avoided anything "soft." He started off in Hudson Hoagland's physiology course studying frog reflexes. He pricked the taut skin of a frog's thigh and measured the animal's jerk, and then its jump. His hands smelled swampy, and he was full of vigor.

つまり彼は「ソフトな」ものはすべて忌避した。彼はハドソン・ホーグランドの生理学の講座でカエルの反射を研究するところから始めた。カエルの大腿のぴんと張った皮に針を刺し、筋肉の収縮度合いと跳ねる距離を測定する。両手は生臭くなり、気力は充実した。

私が訳した『心は実験できるか』(紀伊國屋書店)の中の一節です。

原文の動詞はすべて過去形ですが、訳文では「忌避した」「始めた」「測定する」「充実した」と、「測定する」だけ違う形を使っています。ある程度翻訳に慣れた方ならなんでもないことでしょうけれど、こうして翻訳を見比べたことがあまりない方は、「なぜ過去形が現在形に?」と思われるかもしれません。

「現在形を使うことで描出話法的になる」というような説明を聞いたことがあります。たしかにこの例で見ても、そういう面はあるでしょう。けれども、ここにはもっと大きな問題があると思うんですね。

今の指導要領は詳しく知りませんが、少なくとも私が中学高校で国語の時間に教わった文法では、「測定する」は「現在形」ではなく「終止形」です。 「測定した」は「過去形」ではなく「連用形+完了の助動詞」です。みなさん、英語の勉強を一生懸命しすぎて、国語で教わったことを忘れちゃったんでしょう か。「過去形を現在形で訳す」という発想そのものが問題なんです。

終止形というのは、動詞の基本形です。英語で言えば、不定形のようなものです。それ自体に時制の要素はありません。基本的には、過去の事柄にも未来 のことがらにも使えます。だから、英語の過去に対して終止形を使ってはいけない理由はどこにもないのです。上の訳文では、「測定」が過去の出来事であるこ とに誤解の余地はありません。

ゲーテ・インスティトゥートの教え方

10年以上前になりますけれども、ドイツ文化センター「ゲーテ・インスティトゥート」でドイツ語を勉強したことがあります。このとき驚いたのが、文 法の教え方でした。大学のドイツ語の授業では、英語と同じように「主語-動詞」を軸とした文法をベースに、「副詞や目的語が文頭に出たら主語と動詞は倒置 される」というように教えられます。たとえば

Er(彼は)trinkt(飲む) morgens(毎朝) einen Kaffee(コーヒーを).

という文で、「朝」や「コーヒー」を強調したいときには、

Morgenstrinktereinen Kaffee.

副詞-動詞-主語-目的語

Einen Kaffeetrinktermorgens.

目的語-動詞-主語-副詞

という語順になります。古い英語でも、このような倒置現象はありますね。

ところが、ゲーテでは、倒置などという説明はしないのです。最初から
Vorfeld(前域) Verb(動詞) Subjekt(主語) Angabe(記述) Ergänzung(補足)
という枠があって、

Vorfeld Verb Subjekt Angabe Ergänzung
Er trinkt   morgens einen Kaffee.
Morgens trinkt er   einen Kaffee.
Einen Kaffee trinkt er morgens.  

と、統一的に説明されます。

先頭に来るのは主語の枠ではなく、要するに最初に言いたいことであって、主語(動作主体)も先頭に立ちうる要素の一つに過ぎないという発想ですね。実際にドイツ語では、主語から始まる文の割合は英語よりずっと少ないですし、そういう実情に即した教え方だと思います。

文法に囚われないために

このように、文法というのは説明の仕方であって、けっして絶対的なものではありません。日本語文法についても、私たちが学校で習ったものばかりでな く、いろいろな説明の仕方があります。たとえば「象は鼻が長い」の主語を、「象は」とする学者もいれば、「鼻が」とする学者もいれば、主語はない(そもそ も日本語に主語はない)という学者もいます。あるいは、外国人向けの日本語学校では、私たちが学校で習ったような五段活用、つまり「書く」に対して「か・ き・く・く・け・け」というような説明ではなく、語幹kak-に対して「anai, imasu, u,...」というような教え方をしていると聞いたこともあります。これだと「カ行五段」というような説明は不要になるわけです。

つまりは説明の手段ですから、目的に合った捉え方をすればよいのではないかと、さしあたりは考えることにします。翻訳ソフトのために生成文法が適し ていればそれでいいですし、外国語教育に使うのならば、身につけやすい形をとればいい。では、私たちの翻訳に際して役に立つ日本語文法とはどんなもので しょう。まず、英文法を日本語に援用するような説明はよろしくない。「測定する」を「現在形」と考えることによって、すでに英文法の枠に囚われてしまって いるからです。囚われないためには、説明は違う方がいいのです。その意味では、「主語概念を捨てる」のもいいかもしれません。ドイツ語のVorfeldの ように、まず「提示」「提題」があると考えるのです。

そう考えなければいけないということではありません。冒頭の文章を私が訳したときに念頭にあったのは、彼(若き日のB・F・スキナー)がデータに基 づく「ハード」サイエンスに向かっていく様子を、原文が持っている力強いリズムで伝えたい、ということにすぎません。後から考えれば、終止形の持つ描出的 な効果(基本形であるということは、その動作の内容のみに焦点化しているということです)を利用しているわけですが、訳しているときはそんなことは全然考 えていません。

これは、翻訳の勉強でよく言われる「原文に囚われない」ということの一面でもあります。大切なのは、文法規則だの何だの表面的なことに惑わされず に、ことがらそのものに目を向けることなのです。けれども、逆説的ですが、それに気づくためには、ここに指摘したような文法に関する知識が必要になってく るわけです。知ることによって自由になれる。これは他のいろんなことについても言えますね。

普遍文法は存在するのか

さしあたり、説明にすぎないのだから役に立てばよい、と申し上げましたが、しかし純粋に理論的興味として、英語も日本語も、世界中の言語を統一的、 整合的に説明できる普遍的な文法というものはありうるのでしょうか。それが確立されれば万能翻訳ソフトも十分実用的になるでしょうから、理論的興味とばか り言っていられませんが。

私は、その可能性は十分にあると思っています。その「普遍文法」がチョムスキー的なものであるかどうかは別にして。言語が脳の産物である以上、文字 面の分析ではなく、脳の活動の分析によって文法要素は基礎付けられる可能性はあります。何となく「意識内容は脳神経の活動によって記述できるか」という最 近はやりのトピックが絡んできそうですが、脳科学の進展が今後言語学に影響を及ぼしていくことは間違いありません。

しかし、「母語」と「習得された第二言語」とでは、脳内で働く部分が違うという研究もあります。最近読んだ話ですが、表音文字を使う言語の話者(イ ギリス人)と表意文字を使う言語の話者(中国人)とでは、文を読むときの脳の働き方が全然違うそうです。脳の活動の解析から普遍的なものが導き出せると は、断言できないかもしれませんね。

ここで私の予想を一つ。それでもいずれ、人間の言語活動は解明され、完全な機械翻訳は可能になる。けれどもそれが実現するのは、本当の意味での AI(人工知能)が完成したときである。そのようなAIは、文の内容を「理解」するが、そのためには身体感覚のインプットが必要である(これも最近読んだ 話なのですが、コミュニケーションには身体性が不可欠なのだそうです。なるほど)。したがって、入力テキスト以外の環境要因によって、個体(機械)ごとに 出力される訳文は違ってくる。そして、ときには誤訳をするかも……。

(初出 サン・フレア アカデミー WEBマガジン出版翻訳 2008年9月16日号)